比企広域社会の実現に向けて

東松山市民の会のこと
 今から二五年前、東松山市の三O歳前後の若手が一O数名集まりました。一番若かったのは市長をされていた坂本祐之輔さんでした。日大の学生だったです。そういう人達が一同に会しました。ちょうどあの頃小林茂雄さんという政治を志していた友人もおりました。
 私は好きな文明論に関心を持っており、その研究をやっておりました。学生時代からやっておった訳ですが丁度その頃目鼻がついて、その一部がたまたまあるご縁で「新日本外史|日本史の形態学試論ー」として出版されました。そういう頃です。
 小林さん、稲原さん、中里さん、前田さん等々と、じゃあ、やろうじゃないかと、色々な角度で、商工業の方もいましたし、政治を
志した方とか、色々な職業の方が集まって、いうなれば地域を考える会を発足させた。これが東松山市民の会であります。
 小林さんが代表世話人、稲原さんが事務局長で、それぞれ熱心にやって頂きまして、会報のカルチャーリポートの発行、イベント等も色々とやって来まして、大分評判にもなりました。
 今日は、懐かしいのがあるので持ってきたのですが、昭和六O年の毎日新聞の朝刊に「埼玉市民群像」ということで「新しい地域社会を|東松山で」ということで、「自立、文化の街づくりへ」と上下二回二日間に渡って紹介されたのは市民の会だけでした。
 こういうことで、我々は“地域社会を私達の手で” ということを始めました。当時は、田中首相が列島改造論ということで日本の政治をリードされていた訳ですが、列島改造ということで開発というものがどんどん身近に来ていました。
私は地元に住んでいて、子どもの時の趣味が蝶々の収集という極めて素朴なことをやっておりました。また、その辺の川で魚釣り等、いうなれば溢れる自然と共に生活していたものですから、こんなに恵まれた自然を乱開発されてしまっては大変勿体ないんじゃないかと思っておりました。
 一度開発された自然というものはなかなか元に戻るというのは不可能ですし、又、自然というのはお金で買うということは出来ないんですね。建物は作っては壊して、また作ることが可能なんですが、こと自然に関しては、早い話が休耕田、ヨシが茂るような荒れ地になってしまうと回復するのが極めて難しいそうですね。
 都幾川も以前に比べればいくらか清涜になりつつあると聞いていますが、過去のような清流にするのは不可能だと言ってますね。そのように、自然というのは一度失われてしまうと元に戻すということは極めて難しいですね。
そういう訳で、市民の会には、環境問題というのでしょうか、恵まれた土地、比企の自然と言うのでしょうかね、武蔵野の自然と申
し上げてもいいのですが、こういうものをキチンと開発から守って次の世代に、郷土の共有財産として引き継いでいければなあと、そういうような気持ちで参画させて頂きました。
 それから、一坪が、うん万円、うん拾万円という時代がやがてやって来た訳でございまして、大分我々の活動というものも、大きな気持ちはあっても微力というか難しい経緯がございました。
 私は、今でも時々川に行きますが汚れてます。昔は、私、か中学校の頃は、市ノ川の川の水も飲んだことがあるんですが、実際飲めたんですよ、ものすごくキレイでした。東松山市民劇場の飯島さんがいらっしゃいますけど、飯島さんなんかも松山中学校の頃は都幾川で飯盆炊飯をやったと思うんですが、やりましたよね。皆あそこの水ですよね。川の水でやったんですね。なんでもなかった訳です。その位キレイな水だった訳なんですね。ところが非常に残念というか胸が痛むことがありますけれども、本当に自分自身がやっぱり自然に育まれた時代に育ったんだと、そういうことを実感しています。
 亡くなられた小林茂雄さんの雄志会は、稲原さんが会長ですけども、その会報に「おおむらさき舞う」があります。堀田さんも仲間ですけども、実際に国蝶のおおむらさきがおりましてね。今「おおむらさきの森」というのが嵐山町にもありまして、あそこはなかなか評判が良くて「おおむらさき」というお酒にもなっておりますね。あのおおむらさきが、東松山市にも結構おりました。私も中学校の頃は、ちょうど期末テストにぶつかった時、友人の利根川泰君と大きな桐の木に登りまして、片方が蝶々を追うために上に登って、二人上がる訳にいかないもんですから、一人は下で『おーい、この単語の意味解るか?』『解った!』なんて、そんなことを言いながら、期末テスト中にやったことがあります。懐かしいということよりも、そういうものが大事なんではないかと思っています。
市町村の合併について
 いよいよ、そこでそういう私達の地域社会を、私達で考える、中央からの大きな力、そういう、ものではない、私達が本当に一つの考えを持って地域をしっかりやっていきたい、やらなければならないんだ、という様な時代が、気運が、今ここにやって来たと思っている訳です。そのことが、今、非常に問題になっている「地方分権一括法」施行後登揚してきた、合併問題なんだというふうに私は捉えております。そういった私共の地域を考える勉強会を始めてから四半世紀を経まして、その時が到来しました。ちょうど二五年、当時私は三十一歳でした。今は特定局の郵便局長でお世話になっておりますが、郵便局というのは、地域に生きるという私の希望というか、初心と言うんでしょうか実現できる数少ない職場だということでお世話になって、それから私なりに皆様のご理解とご支援を頂いてやって来たという経緯があります。
 その私達が、いよいよ文字通り責任世代と言うんでしょうか、私も年齢的に五十七歳です。皆様もまあ五十五歳前後になられて、堀田さんじゃないですけれども、小さい頃一緒に遊んだ中ですが、今はきらめき市民大学の事務局長さんで、生涯教育の重要なポストにおられるということなんですが、それぞれが、重要な立場になってきている。私達が郷土を思う集団になったんだろうかと問われれば、そういう時に来たのかなあと、そういうような緊張を覚えている訳なんですね。最近、有り難いことに、いろんな機会にお話しをさせて頂くチヤンスを与えてもらっております。行くと私は必ず合併問題をお話しさせて頂いております。
 市町村合併問題については「地方分権一括法」が二OOO年の四月一日に施行されました。色々と特例措置等も準備するということで、二OO五年三月迄に合併をすれば、その地域のインフラを援助するという地方債、これは国が面倒見てくれるんですが、これが発行できるということです。例えば比企広域が一つになった場合です、これはどういう組み合わせになるか、ハッキリしたことは申し上げられませんが、一応概算五OO億円位の地方債を国が引き受けてくれるという形でおりて参ります。これは一O年かかるんですね。五O億円ずつ一0年間という形でくれるということです。大体、日本の国のことはほっといても、又、自動延長してくれるだろうと思いがちなんですが、昨日の新聞によると、このことに関しては、白動延長しないということを総務庁の方でも言っております。
 とにかく今現在、日本は、ものすごい借金を国も地方もしております。小泉総理は国債を発行するのは三O兆円だということでやっているわけですが、やはり確実に増えてますね。二OO一年の三月でもって非常に解りやすい数字ですが六六六兆円というのがと地方の借金なんですね、大変な金額です。もう途方もない天文学的な数字ですから全然ピンとこない訳ですけども、今現在、更に増えておりまして、二OO二年三月では六七五・六兆円になるだろうと言ってますね。
 これは単純に計算しますと、一人当たり五OO万円強でして、私の家は五人家族ですから二五OO万円、我が家で以てそれだけの国と地方の借金があるということなんですよ。単純に言いますとね。
 そういうような訳でございまして大変な借金を抱えているもんでいいよ、というすから、そうおいそれと、今後共、おお、いいよ、いいよ、というような訳にはいかないんですね。だから、やはり、合併という問題が大きくクローズアップされて来ている訳です。
 合併というのは、単純に明治以降を考えてみますと、明治の初年に大きな合併がございました。江戸時代というのは非常に村が多いんです。当時、七から八万位あった村が一万四・五千にぐーんと減るんですね。更にご案内のように昭和の合併というのが戦後にありました。東松山市は、再来年あたり多分市制施行五O周年を迎えると思うんですが、昭和二九年頃なんですね。行政の専門家が言うのですが三二OO~三三OO、五分の一位になったんですね。それが昭和の合併です。
 引き続き平成の合併というものが政治の日程に上がって参っている訳でございまして、小泉首相の前の森首相の時に、三OOO位あるのを一OOO程度にしたいと、つまり三分の一位にしたいということなんです。何でそういうことをするかというと、結論は地方分権を推進するためには、ある程度の規模が必要だということです。分権するということは、それだけ自治体そのものの力量、器量が問われて来ます。財政基盤ということですね。地域のことは地域でやって頂きたいということを、国は言いたい訳でございまして、三OOO位を一OOO位にしたいと言っているんですね。
 そういったものを踏まえまして、埼玉県も合併の考えを推進する委員会というものが発足致しました。大学の先生が座長になりまして、それから県会議員とかJCの方とか商工会の方々二O数名が構成メンバーになりまして、合併に関する素案というのが昨年の三月に示されました。
 実は、その前に私達は合併問題というのは非常に大切な問題だと、これは明治、昭和と考えても五O年に一回です。それ位のサイクルで来てる訳ですから、これは大変大きな問題でして、子々孫々まで影響を及ぼすという大きなことで、これはキチッと勉強しながらですね、対処していかなければいかんという気持ちを持っておりました。
 その為、少人数の有志の勉強会に過ぎなかったんですが、たまたま東松山市選出の県会議員である堀口さんが、埼玉県市町村合併推進要綱検討委員会のメンバーだったもんですから、彼にいろいろと資料を持ってきて頂きまして、それを基に、我々一O名足らずのものが勉強してきました。
 そういう中で、堀口さんから、いよいよ合併の素案を平成一三年の三月末日までに出さなければならないことになったので、この我々の勉強会から意見をまとめて上申してくれ、と頼まれまして、じゃあ、ということで、この上申書を私達の会で作った訳でございます。
有志の会の上申書
 この上申書と県の素案というのは大分結果的に違っております。それはどういうことかと申しますと、埼玉県が出した素案というのは、比企郡を大きく二つに分けております。いわゆる東の方と西の方にです。東の方は東松山市を中心として、滑川町、吉見町、嵐山町の一市三町ですね。それから、西の方は、小川町が中心になりまして玉川村、都幾川村、東秩父村です。東秩父村は秩父郡ですが、当然比企広域なんですね。東秩父村も入っていて一町三村です。その中で、比企郡の今の行政区分でいきますと川島町と鳩山町が抜けてくるんですが、どうも川島町は川越市志向が強いんですね。鳩山町はもう全然どうにもならない程、越生町、毛呂山町の方を志向されています。
 従いまして、埼玉県が出した素案というのは、三OOO位あるのを一OOO位にしましょうというのが合併を考える一つの基準になったもんですから、比企郡の一市四町三一村を一つにするんじゃなくて、それ位にすれば、ちょうどその辺になる、というようなところで出して来たのかなあと、私共は解釈しましたが、これに対して私達は非常に異を唱えている訳なんです。
 現実問題として、もし、そういうような合併をしたところで、余り内容がないんですね。と申しますのは、やはり、ある程度の規模にならないというと財政基盤もしっかり致しませんし、尚かつ、ある程度の規模がないと、分権する上で内容が伴いません。
 どういうことかと申しますと、二O万を超えますというと、これは行政の方が詳しい訳でございますが、いわゆる特例市ということになってきますし、三O万を超えますと中核都市という形になって来ます。その上、自己裁量っていうんですか、中核都市、特例市というものはそれ以外の規模の小さい行政に比べれば恩典があると、要するに自由裁量権ですね。それが少しずつ与えられてくるというような乙とがあるもんですから、やるからには特例市二O万位にならないとやはり合併するメリットがないんじゃないかと、こういうのが一つあります。
 東松山市の8・1号の広報に掲載された「考えてみませんか市町村合併」の中で、比企市町村の平成十四年度予算等の状況が出ておりました。皆様もご覧になった方が多いと思いますが、あっと驚くようなことが書いてありました。と申しますのは東松山市は大体五O%位は自主財源なんですね。ところが、東秩父村を見ると自主財源が一四j五%なんですね。殆ど地方交付税なんですよ、六O%位ですかね。
 東松山市は、極端なことを言えば、合併しなくても自主財源が五O%位ありますし、なんやかや言っても人口も多いですし、当座はこの町が即過疎になるということは余り考えられない訳ですね。まあ、余り人口は増えませんけれども、正に東京のベッドタウンとすれば、東上線はそこそこ本数も多いですし、有楽町線もございますし、アクセスも決して悪くない。更に風水害に強いということであれば、人が住んでくれるでしょう。
 ということで、当市にはある程度の力はあるんですが、東秩父村の様に、山間地にある町村には、本人達だけがいくら努力しても限界があり、なかなか自主財源が出来ないんですね。いわゆる地方交付税という国からの援助によってなんとか私達と同じような生活水準を維持しているというのが実体なんですね。
 そういうことがありまして、今年の二月になるんですが、友人が会長をしている小川のライオンズクラブで、私に何か話してくれと頼まれました。ライオンズの方々はちょうど私と年齢、か同じ位でございまして、小川地区のそれぞれの地域で、いろんな分野を代表する方だったもんですから、そういう話をさせて頂きました。
 失礼ですけれども小川町だって財政的には大変です。仲間ですから言えるんですけれども。いやその通りだと、こういう訳なんですね。その上、都幾川だ、玉川だ、東秩父だと入ってきてやっていけるんですかと聞きましたら、いや、それは大変なことだとおっしゃいました。ですから、我々はやるとするならば、東松山市を含めたグループになってやってもらわないとどうにもならないし、その為にはなんといっても東松山市は人口のほぼ半分(東松山の人口は九万で、小川と玉川、都幾川、東秩父を合わせても五万五~六千です)を占めるんだから、とにかく東松山市が頑張って指導力を発揮して頂かないことにはどうにもならんから宜しく頼むと言われました。私に宜しくと頼まれでも困るんですが、まあ東松山市の方がしっかりしてくれないことにはどうにもならないんですよ。ということで、いずれにしましても埼玉県の素案なんていうのはとてもじゃないけども私達は受け入れられないし、ライオンズクラブの方々も、我々も受け入れられないということでございました。全くそうだよねという話をしました。
 現実問題として、もし、そういうような合併をしたところで、余り内容がないんですね。と申しますのは、やはり、ある程度の規模
にならないというと財政基盤もしっかり致しませんし、尚かつ、ある程度の規模がないと、分権する上で内容が伴いません。
どういうことかと申しますと、二O万を超えますというと、これは行政の方が詳しい訳でございますが、いわゆる特例市ということになってきますし、三O万を超えますと中核都市という形になって来ます。その上、自己裁量っていうんですか、中核都市、特例市というものはそれ以外の規模の小さい行政に比べれば恩典があると、要するに自由裁量権ですね。それが少しずつ与えられてくるというような乙とがあるもんですから、ゃるからには特例市二O万位にならないとやはり合併するメリットがないんじゃないかと、こういうのが一つあります。
 東松山市の8・1号の広報に掲載された「考えてみませんか市町村合併」の中で、比企市町村の平成十四年度予算等の状況が出ておりました。皆様もご覧になった方が多いと思いますが、あっと驚くようなことが書いてありました。と申しますのは東松山市は大体五O%位は自主財源なんですね。ところが、東秩父村を見ると自主財源が一四j五%なんですね。殆ど地方交付税なんですよ、六O%位ですかね。
 東松山市は、極端なことを言えば、合併しなくても自主財源が五O%位ありますし、なんやかや言っても人口も多いですし、当座はこの町が即過疎になるということは余り考えられない訳ですね。まあ、余り人口は増えませんけれども、正に東京のベッドタウンとすれば、東上線はそこそこ本数も多いですし、有楽町線もございますし、アクセスも決して悪くない。更に風水害に強いということであれば、人が住んでくれるでしょう。
 ということで、当市にはある程度の力はあるんですが、東秩父村の様に、山間地にある町村には、本人達だけがいくら努力しても限界があり、なかなか自主財源が出来ないんですね。いわゆる地方交付税という国からの援助によってなんとか私達と同じような生活水準を維持しているというのが実体なんですね。
 そういうことがありまして、今年の二月になるんですが、友人が会長をしている小川のライオンズクラブで、私に何か話してくれと頼まれました。ライオンズの方々はちょうど私と年齢、か同じ位でございまして、小川地区のそれぞれの地域で、いろんな分野を代表する方だったもんですから、そういう話をさせて頂きました。
 失礼ですけれども小川町だって財政的には大変です。仲間ですから言えるんですけれども。いやその通りだと、こういう訳なんですね。その上、都幾川だ、玉川だ、東秩父だと入ってきてやっていけるんですかと聞きましたら、いや、それは大変なことだとおっしゃいました。ですから、我々はやるとするならば、東松山市を含めたグループになってやってもらわないとどうにもならないし、その為にはなんといっても東松山市は人口のほぼ半分(東松山の人口は九万で、小川と玉川、都幾川、東秩父を合わせても五万五~六千です)を占めるんだから、とにかく東松山市が頑張って指導力を発揮して頂かないことにはどうにもならんから宜しく頼むと言われました。私に宜しくと頼まれでも困るんですが、まあ東松山市の方がしっかりしてくれないことにはどうにもならないんですよ。ということで、いずれにしましても埼玉県の素案なんていうのはとてもじゃないけども私達は受け入れられないし、ライオンズクラブの方々も、我々も受け入れられないということでございました。全くそうだよねという話をしました。
 先日の、七月二八日、地元三会派のロータリークラブ(東松山ロータリークラブ・東松山むさしロータリークラブ・小川ロータリークラブ)の初めて合同の例会がございまして、たまたま東松山ロータリークラブの会長というのが我々の仲間の野口荘二さん、前の市議会議長をされた方なんですが、野口さんの依頼で話をしてくれと言われまして行ってきました。私もこれは是非知ってもらいたい、知ってもらうんじゃなくて自分の出来る範囲で結構ですから、こういう方向に向かって努力をして貰いたい、という切なる思いがあるものですから、やはりこの様な話をさせてもらいました。
 小川ロータリークラブというのは、初めて知ったんですが二O人もいないんですね。小川町は、私の仕事に関係したことでも、法務局が無くなっちゃいますね。東松山市の法務局だけになっちゃうんですよ。先週、東松山市の登記所の隣で印紙を扱っている野田屋さんというお屈があるんですが、あの屈は郵便局に買いにくるんですが、急に沢山買っていくんで、「どうしちゃったんだい」と言ったら、「ああ、うんとお客さんが来るんですよ」「どうしちゃったんかね」と言ったら、「小川町の法務局が開局なんですよ」と仰いました。そうすると小川町の方も皆あそこに買いに来る訳ですよ。だから、これは小川町の法務局の側にあった印紙屋さんが売れなくなるという以前に、登記所関係の仕事をやっている方々は、東松山市のこの辺に事務所を構えないと仕事にならないんじゃないかと。そういうようなことがありました。
 小川ロータリークラブというのは、初めて知ったんですが二O人もいないんですね。小川町は、私の仕事に関係したことでも、法務局が無くなっちゃいますね。東松山市の法務局だけになっちゃうんですよ。先週、東松山市の登記所の隣で印紙を扱っている野田屋さんというお屈があるんですが、あの屈は郵便局に買いにくるんですが、急に沢山買っていくんで、「どうしちゃったんだい」と言ったら、「ああ、うんとお客さんが来るんですよ」「どうしちゃったんかね」と言ったら、「小川町の法務局が開局なんですよ」と仰いました。そうすると小川町の方も皆あそこに買いに来る訳ですよ。だから、これは小川町の法務局の側にあった印紙屋さんが売れなくなるという以前に、登記所関係の仕事をやっている方々は、東松山市のこの辺に事務所を構えないと仕事にならないんじゃないかと。そういうようなことがありました。
 何を言いたいかというと、ここにいる方々はよく解ると思うのですが、かつて小川町というのは、武蔵の小京都と言われてました。
私は小学校の頃、珠算を習ってましたが、商工会で珠算の検定試験がありまして、小川町まで行った記憶があるんですね。今ではなかなか考えられないと思うんですけども、小川町は商工業が非常に盛んでございまして、ご案内のように小川信用金庫もありましたしね。やっぱり良かったんですね。小川町のどつかの中学校ヘ行って検定試験をして来たことがありました。
 私は高等学校は東上線で川越だったんですが、小川町の連中もおりまして、東松山市の連中なんかより革靴なんか履くのは早いんですよ。何となく商業とかで金があるっていう感じがしましたね。東松山や坂戸は、いたって地味でしたけれども、意外と小川の方は良く言えば都会的でした。小川町というのはとにかく裏に大きな山を控えてまして、木もかつては売れた訳ですよ。和紙もそうですが、そのせいか、とにかく芸者さんが多かったですね。締麗、ところがね。今小川町には全然いないんじゃないですかね。
 いずれに致しましでも小川町というのが一つの核でございまして、例えば小川高校というのはなかなかいい学校でして、昔は女子高校に行くというような人材の人達は、現在、東松山市の人達が熊谷や川越女子高校に行くように皆小川高校に行きました。小川町というのはそういった意味では、やはり力があったんですね。
 ですから、比企というのは東西に分かれて、小川町中心と東松山市中心というようなものが根強くあるのはあるんですね。しかしながら、時の涜れというのでしょうか、大きな大きな歴史の流れの中で、、現在の小川町が自立して、他の村を引っ張って行って、比企郡の東の方の横綱が東松山市だとするならば、比企の西の方の横綱は小川町だと、がっぷり四つに組んでというような訳には残念ながら行かないということがありまして、やるならば一つだというようなことをロータリークラブの方々も仰っておりました。
 そういうことで、埼玉の縮図が比企であると言われるんですが、やはり比企の西の方も一緒になることによって、先程比企の自然が素晴らしいと申し上げた訳ですが、正に山あり谷あり川あり丘ありで、そういった山間地の村も引っ張ることによって、非常に理想的さっき言った環境問題からしましでも、「比企は一つ」であるということで、その方向で合併するならば、非常によろしいんじゃないかと。そうしますと二O万からになりますから、特例市の誕生になる訳でございます。
上申書
 こういうことを私達はこの上申書で申し上げた訳なんですね。ちょっと復習を兼ねて簡単なものですから、初めての方もいらっしゃるようなんで読ませて頂きます。これは我々は若干理想を述べております。(からが上申書の文章)
比企郡下の市町村に東秩父村を加えた一市六町三村が合併することが望ましい。この地域は地方分権老実施するに相応しい土地柄であり、その成否は当地のみならず今後の合併分権のあるべき姿、方向を指し示すことが出来るものと考えられる。以下、その事由を記す。
 一、この地域の人口は現在二四万人程であり、都道府県に準じた諸権限を有する特例市(人口二O万人以上)の誕生となる。さらに、人口が増加すれば政令都市に次ぐ諸権限を有する中核都市(人口三O万人以上)になることも可能である。
人口三O万人以上、面積一OOk㎡、埼玉県で唯一これに該当するのが川越市です。川越市は人口三O万人以上ですし、また、あそこは広さもあります。一OOk㎡あるんですね。しかるべき規模を持っているのは川越市だけです。中核都市なんですね。既に中核都市になりますよと川越市長は言っていますね。その内さらに引っ張り込んで政令都市になるとも言ってますが、大きくすればいいってものじゃないですけどね。
 -この地域が一つになり、中核都市を目指すことによって地方分権の実を挙げることが出来る。
要するに比企が二つに分かれちゃ意味がないということです。
 二番目になりますが、!この地域は東秩父村を除けばかつては全て比企郡であり、比企は一つであるという考えが住民に浸透している。現在、既に消防、救急、斎場、さらに老人福祉や介護認定審査会等は「比企広域市町村圏組合」で比企全域を対象として処置されている。そこで、他の行政機関も一つになっていくことに抵抗は少ないと考えられる。
 既にそういう基礎は広域行政としてありますということなんですね。従って、その延長上に一つの形にすることは、それほど無理が
ないでしょうということを二番目で申し上げたんです。三番目、これは教育問題を取り上げました。子どもを持つ親にとって教育の問題は最重要課題である。現在、比企地方の小中学校の教科書等は統一されている。教育には各市町村とも大きな予算を
割いている。時代の要求する教育水準を維持するにはしっかりとした財政基盤が不可欠である。教育行政の専門家のご意見として教育におけるスケールメリットを生かすには比企市町村が一つになることが必要であるという。
 この教育行政の専門家というのは、市の教育委員長をなされている荒井桂先生、前の県の教育長さんですが、来て頂いて、乙の問題について、教育行政という立場では、どう思いますか、と先生にお尋ねした時に、先生は、教科書はもう統一されているんだということと、同時にですねスケールメリットを生かすには、やはり「比企は一つ」になる必要がありますと、その辺がないというとスケールメリットを教育行政に活かせません、と仰ってくれたんです。
 -市町村の教育に対する財政基盤のアンバランスは子々孫々にまで禍根を残し、ひいては教育の機会均等という憲法の精神にも惇ると考える。以上、教育行政の視点からも比企市町村の合併・統合が要請される。
 四番目、「比企は一つ」であるという観念はその歴史的風土や地形的要因に由来すると考えられる。歴史的には鎌倉武家政権を樹立した武蔵武士の根拠地である。比企氏や畠山氏を代表格に党と称される中小の武士団が幡据している。これこそ当地域のアイデンティティにすべきものである。殊に比企氏の遺蹟は比企郡全域に分布している。又、比企氏はこの比企の地名を名乗った唯一の豪族であった。
 地形についていえば、この地は一000メートル近い山並みを尾根として川あり、谷あり、丘あり、平地ありとバラエティーに富んでいる。県央に位置する比企地方が埼玉の縮図と言われる所以である。文、起伏に富む比企丘陵は実に美しい景観を形造っている。
 東松山市の下唐子を舞台にした児童文学の傑作、打木村治の小説の題名は「天の園」であるが、この地が人情も含めて美しいからに他ならない。比企の地は、造化の妙と歴史の奏でる桃源郷と形容するにふさわしい恵まれた土地柄であると思う。
 五番目、現在、当地方最大のイベントは日本歩け歩け協会主催による日本スリマーチである。当地で開催されるようになっ
てから既に二十一回を数えている。スリマーチは東松山市を中心に比企地方全体に繰り広げられる歩けの祭典である。当地
が日本スリマーチの会場となるのは豊かな田園地帯が広がっているのと同時に交通の便が良いことが挙げられる。さらに、
首都圏の一角に位置するということも有利な点であると思う。
 しかし、この歩けの祭典も近年やや下火になったように思われる。
ウオキングの祭典、か各地で催されるようになったということもあるが、受け入れ側にも問題がありはしないであろうか。スリマーチの会場になる地域が一つの市になることによってもっと内容のある、めりはりのきいたイベントが可能となり、全国のウォばかりでなく心ある多くの方々が集うイベントにすることが可能になると考えられる。
六番目、当地域は首都圏の一角にあり、交通の便も良く、しかも極めて良好な自然環境に恵まれている。目下大震災が懸念されているが、当地方の地層は堅固な岩盤であるという。当地の産業は未だ製造業中心であるが、これからはこうした立地条件を生かした産業政策を考えるべきである。すなわち、研究機関の誘致や精密機械の製造、司関連企業の誘致等である。雇用機会の増大は活力ある地域社会の創造にとって欠くべからざるものである。-
その通りなんですね。というのは何で鳩山町の山の中に世界の日立の研究所があるかというと、あそこは非常に耐震性に強いらしいですね。研究所というのは、言わずもがなですが、堅固なところでないというと研究する上で、支障がある訳なんでしょう。いろいろ調べてきた結果、大変な山の中ではあるんですが、あそこが日立の研究所にするには非常にいい場所だったということですね。
よく言われるんですが、もし関東大震災級の地震が来た揚合、首都圏はどうなるだろうかと。大丈夫なのは、八王子あたりとこの辺らしいですね。川越なんかは危ないらしいです。最近出来たところは危ないんですね。川越は昔からあるところですが、やはり県南の方は江戸時代になって荒川だとかああいうところを開発してつくった、所謂新興地域ですよね。
ところがこの辺は、大体武士が出て来たところなんてのは、八高線に沿っている訳ですが、谷が出来て、そこでちょっと田圃をやっ
てというようなところから始まっているのが、武蔵武士が出て来るようなところなんですけれども、とにかくいいところなんですね。
下が岩盤ですね。
私も新しく家を建てたんですが、やはり下が岩なんですね。この辺は風水害は心配ないし、唯一心配なのは地震ですが、昔から人が住んでいるところというのは、いいところであるっていうのは間違いないんですね。そういうことで、終の棲家するにはなかなかいいところだということですね。
前の芝崎市長の頃に、新聞記者っていうのは日本全国、場合によって外国にも行くんでしょうけども、リタイヤーして、どこに住むかというと、狙うところは東松山市らしいですね。というのはさっきも言ったように、自然環境もいいじゃないかと、東京ヘ行くのだっ
て東上線がありますから便利ですね。又、関越も来てます。そういう意味では交通のアクセスもいい訳です。これは芝崎前市長が言たことで私が確認した訳ではないんですが、そういう訳でいいところなんですね。
最後になりますが、
 七番目、地域、か真に自立するためには生活のミニマムである食料、水、薪炭、清浄な空気等の自給は不可欠であると思う。自然に恵まれた当地方は幸いにしてこれらの諸条件、か満たされている。
 この他にもまだいろいろあると思いますが、いずれにしましでも私達は、「比企は一つ」なんだと、歴史的にも地政学的にもそうな
んだと、しかも、既にもう広域的行政としてあるんだから、何も今更二つに分けることはないだろうということです。
聞き取り調査じゃないんですが、機会ある毎に小川町の人達とかと話をしますと皆そういいますね。従って埼玉県が出してきたのは素案でございますから、叩き台に過ぎないわけですから、別にあれでやらなくてはという訳ではありません。
我々とすると、やっぱり「比企は一つ」でございまして、出来れば川島町にも加わって頂きたい訳ですね。ここに演劇「滅びざるも
の」で頼朝役を演じた東松山市民劇場の飯島さんがお見えになっておりますが、川島町には比企一族ゆかりの金剛寺もありまして、そういう歴史的な関係も考慮しないといけないと思うんですね。
しかし、やはり川越に近いですんね。只、あそこはご案内のように、川島町と川越市の聞には大きな越辺川の橋があります。今は別に何ということはないんですが、昔は結構あの大きな越辺の川というのは、比企地方と入問、川越を分かつ大きな存在だった訳ですね。昔は当然渡しがあったんでしょうが、洪水で濁流となり川幅が広がれば当然いけなかったでしょうからね。昔は自然のそういったものが、今我々が想像する以上に、地域を分かつものになっていたんだと思います。
しかし、我々がこれからの比企を、もし一つになれば、こんな魅力的なところになるんだということを示せれば、川島町の方も、必ずしもこちらを振り向かないものでもないと思うんですね。只これは比企でいってんですけども、例えば、大里町でも、江南町でもこっちヘ付きたいというようなものがあります。熊谷市の引力があるんですが、錯綜してるんですね。
いずれにしましても、この合併の問題が平成の合併と言う形で国策として提示されてきた訳なんです。これについては、いろいろと理由が沢山上げられています。今、広域行政が必要だというのは、昔は歩ったり、せいぜい自転車でしたが、現代は車の時代で、昔は徒歩で歩いた二O分を、車で二O分行ったならば相当行けます。今は車が足の代わりになっておりますから、各地に余り使いもしない大きなホ1ルを作らなくても、車で行けばいらなんじゃないかと、そうすればいくらか効率も良くなるし、経済的にも楽になるとかですね。
実際我々の活動範囲は拡がっておりまして、学校なんかでも結構東秩父村の人が東松山市の高校へ来ております。それから商業圏も、車がありますから、玉川村や東秩父村の人が東松山市の丸広に来るとか、そういうような形になっていますから、というようなことでもって合併を言って来てるんですね。
何が言いたいかというと、固に金がないっていうことが、今回の合併の一番の理由なんですね。明治の合併は小学校の設立ということが大きな要になっておりました。昭和の合併は中学校らしいですね。今度の合併は何としても固に金がないということで、いつまでも地方交付税を配るということが出来ないということなんですね。何しろ借金が、国と地方合わせて七OO兆円ということで、もう二、三年経ちますというと一000兆円になるだろうと言われてるんですね。もう金がないんですよ。
日本人は、個人金融資産は一四OO兆円で世界一と言われてます。皆さん海外旅行されたり、日頃から生活をエンジョイ出来る豊かさがある訳なんですが、残念ながら、国は正に赤貧洗うが如しでざいまして、ご案内の通り、あのムーディーズの格付けによれば、日本の国債の信頼度は、ひどいもんでして、台湾や韓国以下ですし、南アフリカとか、南米のチリ以下なんですね。ですから、言うまでもなく、先進国の中では最下位です。本当に情けないことです。
それは、それだけ財政赤字を垂れ涜して日本はやって来ているということなんです。これ以上やっていますというと、二つの選択肢
しかないんですね。一つは大増税ですよ。消費税を三O%位にして何とかやっぱり税金をとっていくんですね。でも、そうなると、益々
デフレは加速するんでしょうね。買わなくなりますからね。ハッキリ言って、それが一つなんですよ。
ところが、ある時宮沢喜一さんが、橋本総理の時に消費税やって自民党が選挙で大負けをしたと、だから増税は出来ないと言ってました。従ってインフレを起こすしかないよとチラッと言ってますね。そういうことがチラチラと言われています。インフレにするということは、全部紙切れにしちゃうということです。国の借金が一OOO兆円だどすれば、一OOO倍位のインフレを起こしちゃえばいい訳です。その代わり皆様の持っている貯金が、一OOO分の一になっちゃうわけですよ。俺は郵便局に一OOO万円貯金があるからしばらく楽しめると思っていたのに、気がついてみたら一万円だったと。本来なら女房と二人で海外旅行に行ったり、仲良く老後を楽しみにしていたのに、気がついてみたらヤキトリ屋と、蔵の湯へ行ったら終わっちゃったと、いうようなことになりかねない。そういう危険を字んで来る訳ですね。
新文明の創造
皆さんにお配りした「埼玉市民群像」。二O年位前のものなんですが、四行目に、新しい文明をというのがございまして、ー高島さんは会の創立メンバーの一人として、トインビ、シュペングラなどの文明論の研究者として有名、理論面で会を引っ張っている。
・・・高島さんの構想は雄大だ。東松山など九つの市町村からなる比企地方は、緑も多く、食糧、燃料(木材)の心配がない。ここなら世界の情勢に動かされることのない自立した地域社会、新しい文明の創出が出来る、というのだこれが昭和六O年の毎日新聞に掲載された記事の一部でございますが、これが、これからの地域社会を考える視点でございます。
あれから大分経ちましたが、あの頃我々が漠として描いていた、地域に対して描いていた一つのそういう思いを、実現に向けて行動を起こす時が、いよいよ来たのだと実感しています。この頃は、高度経済成長がほぼピークになりつつある時だったんですけども、そういう時、我々は大分遣うことを仲間達と話し合っていたという経緯がこの文章でお解り頂けると思います。
先程の比企広域社会云々の上申書に戻って頂きますが、七番まで一応読み上げさせて頂きました。ここまでは春秋会の例会の時に話をさせて頂いたんですが、この後の半分は、私が上申書を書く時に、一つの大きな理想といいますか、夢といいましょうか、それを上申書の中で表現したいと思い、考えたことでございます。
 今の日本は非常に残念なことにキチッとした方針がないんですね。小手先とか、対症療法じゃなくて、国の在り方っていうか、あるべき姿というか、それがないというと、知何にあるべきかとか、どうすべきかとかいう戦略戦術は出て来ないんですよ。やはり戦略戦術っていうのは、ある程度こういう国を作るんだという一つの目標があると、それに向かってどうするかということが出て来るんですね。
ところが、それがないと常に目先の利害打算に引きずり回されて、最後はとんでもないババを掴むとか、ろくなことをやってない。やはり、戦略戦術があるかないかつてことは、大きな目標といいますか、未来に向けての大きな展望があるかどうかと、ここに帰するんですが、残念ながら今の日本に戦略戦術があるはずがないんですよ。
 それは何となれば、日本の国をグローバルに捉えて、歴史を捉えて、我が日本国はどうあるべきか、という展望がないからです。これを堀口県議さんが、どこまで上申してもらったかも定かではありませんが、少なくても我々の意見は素案の中に入っておりませんでした。これが一体どうなっているのか、その後、私は何も聞いておりません。何れにしましても、合併問題はタイムリミットが云々だけではなく、大きな大きな日本国の展望がなければ、やっぱり駄目だろうと、いうような思いがあったものですから、書かしてもらいました。読みます。
以上のことから、比企市町村の合併は地方分権という自立した地域社会を創造する上で絶好な場所を提供していると考えられる。
思うに、我が国の戦前は軍事大国の道であり、戦後は経済大国への道であったといえる。この二つの道は、世界に対する我が国の模索であり、結果的には錯誤の歴史と考えられないであろうか。我が国の役割、世界への貢献は日本本来の姿に立ち帰ることを措いて他にないと考えられる。地方分権はその第一歩であると思う。そして、当地方はかかる分権の時代に向けて先鞭をつけることが可能であると確信する。
最後に明治以降の近代日本を総括し、我が国の将来に対して新たな展望を得るために二人の偉大な先人のメッセージを紹介したい。
ということで、日本の横井小楠を上げときました。

横井小楠(一八O九~一八六九)
 明尭舜孔子之道
 莞舜孔子の道を明らかにし
 尽西洋器械之術
 西洋器械の術を尽くさば
 何止富国
 なんぞ富固に止まらん
 何止強兵
 なんぞ強兵に止まらん
 布大義於四海而巳
 大義を四海に布かんのみ
 横井小楠というのは、西欧列強が黒船で来た時に、儒教の思想をもって、黒船という日本の困難に対処して考えた、只一人といっていい思想家です。横井に言わせると、有道、無道っていうんですね。道があるのが有道、道が無いのが無道、つまり、西欧列強は道のある国家なのか、あるならば当然、誼を通じるし、仲良くすべきであろうと。もし、道無き無道の国であるならば、断固これ討つべし、です。結論から言うとね。
横井小楠が、どれほど優れておったかというと、勝海舟の例の氷川清話の中に書いてあるんですが、勝は、私はこの世で恐い人聞を二人見たと言ってます。一人は横井小楠だと、もう一人は西郷南州だというんですね。横井小楠は、当時、政治総裁職をやった越前の松平春巌に招かれて顧問格でおりましたが、明治以降になりまして、西洋かぶれだと殺されちゃいます。このメッセージは横井小楠の甥子さんがアメリカに勉学に行かれる時に、甥子さんに向かって言ったものなんですね。
従って、先ず尭舜孔子の道を明らかにするということは、東洋の道徳、哲理を明らかにして西洋器械の術を尽くさば、科学技術文明のことを西洋器械の術を尽くすと、つまり西洋科学技術文明を自家薬寵中のものにすれば、なんぞ富国に止まらん。我々は豊かになればいいってもんでもないだろう。強固になればいいということではないと。我が日本の進むべき道は、正に莞舜孔子の道、大義を世界に布告することではないか、つまり、道義国家在日本は目指すべきであると、こういうことを横井小楠は言ってる訳なんです。
単純に言って、戦前の日本はやはり強兵なんですね。日本が当時列強の中におかれた立場、状況を考えればきれい事では済まされないことは解る訳でして、弱肉強食、正にそのものが帝国主義であった訳ですからね。日本が植民地になって酷い目にあわないためには、何としても西洋の科学技術文明を取り入れて、それで以て、ということであった筈なんですが、西洋は科学技術文明だけではなくて、あらゆる点で優れているんではないかと、そういう考え方が出て来る訳でして大体日本あ自国の文化を段々失って行きつつある訳なんですけれども。
とにかく戦前は強兵、戦後は、ご案内の通りスッカンピン、廃嘘ですね。僕は終戦の年に生まれたから解らないですけども、東松山は小さな町でしたから幸い空襲といっても、おふくろに聞いたら、(当時ヂゼル機器)にですね、バババーンと何そこのボッシュか打ち込まれたと言ってました。しかし、熊谷は大空襲でしたね。あれは終戦の前日の八月十四日の話ですよね。これといった町は殆ど廃櫨になりました。東松山は小さい町だから廃嘘にするような価値もなかったんでしょうけども。
そこから立ち上がった日本が、正に世界に冠たる経済大国になって、我々は想像も出来なかったような豊かさを享受していることは間違いないですね。ところが、やはり国は混迷してますし、我々も自信を失っている。その中で、日本はこれだけの国力、経済力、がありながら、残念だと言わざろう得ないような状況にあると思う訳なんですね。従って、戦後は富国になったんだということでしょうが、我々の本当の進むべき道は道義国家ではないんですか、とい'つことなんですね。
ここで、私は非常に大事なことを申し上げたいと思います。日本は日清戦争に勝ちましたね。韓国問題が絡んで来るんですが、日本は、韓国がしっかりしてくれないと、どうにもならんということで、日清が戦いました。この時列強は、日本は清国に勝った時にどういうことをやるかと、見守っていた訳です。ところが、要するに、帝国主義の列強がやっているのと同じように、賠償を要求する、或いは遼東半島を求める、ということをやった訳ですね。これを見た列強は日本は東洋の君主国と聞いていたと、もし日本が日清戦争で勝っても、取らない、ものを貰わない、ということで、あくまで韓国の独立が目的で、韓国にしっかりしてもらいたい、ということで
あったとするならば、これはまったく異質の原理なんですね。それは正に彼らの弱肉強食の世界が論理的に完結しなくなるんですよ。
しかし、今言ったように、同じようなことをやってきたから、連中は、しめた、と思ったんですよ。これなら叩けるぞと、早速、三国干渉ですね。これなら力の世界で戦えるいうことですよ。それを見て、今言った勝海舟が、「ざまあみろ、あんなことは最初から解りきったことだ。だから清国を懲らしめるってのは間違いさ」と、言っております。
それから更に、それはやはり間違いだと、日本が日清戦争に勝って、領土を取ったりしたことは間違いなんだ、ということを言って
いた人が若干名いますよね、明治の軍人の谷干城少将、それから、昭和になって、私が個人的に大変お世話になった遠藤三郎という陸軍中将なんですが、この方は陸軍大学校の教官もやっております。教官をやっていた頃に講義の中で、日清戦争をやって領土割譲したのは日本の間違いだと、ハッキリ言ったらしいんですね。そうしたら、大分文句を言われたらしいです。
ということで、日本は東洋の君主国じゃない、単なる後進国だと、これは要するに我々の土俵に上がって来たんだから叩いちゃおう、となった訳です。黄禍論というのがありますね。ドイツの皇帝が、東洋の黄色い国が出てきたよ、ということで、こいつは後でとんでもないことをするかもしれないから早い内に叩いちゃえと。こういう乙とが黄禍論で、人種論的なものが段々出て来るんですね。
ところが、日本が成長していくためには、結果的に近隣のアジアの国々を犠牲にしていくつて乙となんです。従って目本は国力が最高になったときに、ヨーロッパの白人から一番嫌われて、それから本来手を繋げるはずの近隣の国々も敵に回って、全世界を敵に回さざろう得ないっていう宿命だったんですね。この論理で行くと必ず滅びるんですよ、日本は。それは高度経済成長も同じなんですね。
そこでですね。次なんですよ。アインシュタインの次のメッセージは、日本のあるべき姿はこういうものではないかということを、示唆している訳ですよ。アインシュタインは、大正十二年に来日してます。この日本史の年表にアインシュタイン来日つてのが、ちゃんと出てるんですね。
一九一四年からの第一次世界大戦でヨーロッパは大変なことになりました。我々には、第一次世界大戦はピンと来ませんよね。日本は多少火事場泥棒的なところがありましたが、ヨーロッパの連中にとって、第一次世界大戦での戦争被害は、第二次世界大戦以上なんですね。
それまでの彼らは進歩と繁栄に酔っていて、我こそは先進国で人類の本当の文明を享受して、と思ってやって来た訳なんですが、そう長くなく簡単に終わるだろうと思っていた第一次世界大戦が、出旦図らんや泥沼のようになって、次から次へと、航空機も登場する、戦車も出て来る、化学兵器も出て来て、容易ならざる戦いになりました。
そういう第一次世界大戦の悲惨さを目の当たりにしたアインシュタイン博士は、大正十二年に待望の日本に来たんですね。第一次世界大戦で戦禍にさらされたヨーロッパを見て日本に来ました。アインシュタイン博士は一般相対性理論を発表してますから、当時、世界一と言われていたんですね。アインシュタインは、よく霊能者と言われているんですが、その彼が東北大学で講演されました。その時に話した中の一節がアインシュタインのメッセージとして今日に伝えられています。
ちょっと読みます。その前に少しあるんで付け加えておきましょう。アインシユタイン(一八七九i一九五五)|近代日本の発展ほど世界を驚かしたものはない、一系の天子を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。私はこのような尊い国が世界に一ケ所くらいなくてはならないと考えていた。-
-世界の将来は進むだけ進み、その問、いくたびか争いが繰り返され、最後に疲れるときがくるだろう。その時、世界の人類は真の平和を求めて世界的盟主を上げねばならないときがくる。この世界の盟主となるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越する、もっとも古く、かつ尊い国柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに返り、それはアジアの高峰、日本に戻らねばならぬ。我々は神に感謝する。天がわれわれのために日本という尊い国を作ってくれたことを。-こういってる訳です。
そこでアインシュタインが言ってる乙とは、日本に対する期待なんですね。やはり日本人というのは、こういう道義とか、高い文化を享受出来るだけの資質のある民族です。従いまして、正にアインシュタインが言ってるような方向に向けて、これからの地域を作つていく。要するに今言ったように、正にこれからの分権というのは、固に金がなくなったから、地方と縁切りするための縁切り金として地方債はあるんだと思うですが、そうではなくて、それを巧く活用して、我々はこの恵まれた比企の自然、それから歴史、風土を大切にして世界に誇れるような、新たな地域社会を創造していかなければならないと思うんですね。
人道の起点
私が今申し上げた道義国家なんですけれども、実は嵐山町の、今、菅谷館跡といわれてる所に畠山重忠の立派な銅像が建っているんですが、あれを建てた人は、小柳通義って方で儒者です。儒教の専門家なんです。その方が鎌倉三代記という謡曲らしいですが、畠山重忠の存在を知り痛く感激したんですね。それで、畠山重忠の館を見たいということで菅谷に来ました。昭和三年位ですかね。折角来たんじゃ、嵐山は景勝の地だからということで、関根茂章先生宅の前から降りられてご覧になりました。今は武蔵嵐山というんですけども、当時は新長瀞って言ったんですね。
武蔵嵐山と命名したのは有名な本多静六博士ですね。大変有名で菖蒲町出身ですね。今、菖蒲町では本多静六博士の顕彰をやってまして、今年は静六先生の没後五O年にあたるのかなあ。本も町を挙げて出されました。私も取り寄せました。まだ読んでないんですけど、立派な本が出来ました。
その本多静六博士が、たまたま新長瀞に来まして、これは京都の嵐山に似てるってんで嵐山ってことになったんですね。小柳先生は関根茂章先生宅の協を通って、帰りがけお世話になったらしいです。その頃、関根先生のお父さん茂良さんが当時二十八歳だったらしいですけども、東京に行く機会があって小柳先生の所に泊まったらしいんですね。いや、あそこの官谷館はすごい、畠山重忠の銅像でも建てようじゃないかと、こういうことを話し合ったらしいんですね。
 そこで小柳先生が中心になって、勿論、地元の人達と、土地を提供したのは山岸さんという方です。それでもって碑を建てたんですね。
小柳先生は易学の大家なんですが、ここは人道の起点だと言うんですね。この畠山重忠の生涯、私が言うまでもなく坂東武者の鑑と言われてまして、彼も北条にやられました。比企が滅明ほされたのが、今から八百年前の二一O三年ですが、その二年後の一二O五年に畠山重忠も北条の謀略にかかって、一三O何騎で二股川で結局殺されちゃう訳ですが、坂東武士の鑑として文武両道に秀でた畠山重忠公ということで、小柳先生はあそこに銅像を、村の衆の力を頂きながら建てられたということです。彼は、只単に畠山重忠の功績ということだけではなくて、易学的見地からも、この土地は正に人道の起点なんだと、ここに、世界の人々が、やがて集い来る時があろう、ということをおっしゃっていたらしいです。
関根先生にもお聞きしたと思うんですが、当時、東方という退役将校が仰せつかって、安岡先生の日本農士学校を作るということで土地を探しておりまして、この辺の東上線に乗ったり、青梅の方に行ったりしていて、たまたま東上線に乗って東松山にも来たらしいですね。又、菅谷に行ったら、ひらひらと私を招くように見えるものがあったので吹っ飛んで行ったら、畠山重忠公の銅像の除幕でかぶせであった布が、はためいておったんですね。ああ、ここだということで、あそこに日本農士学校を作ったんですね。
安岡先生、かきまして、正に、我々が今言っているような、地域の社穣を担うということ、新封建って言ってますね。正に地域主義ですよ。それを担うような人材を育成して、いい言葉ですね、有力にして無名、有力なんだ、無名でいいんだ、こういう人聞を作ること
が、日本の本当のカになるんだ、それで以て安岡先生は日本農士学校を指導した訳ですね。それでまあ、敗戦になってしまった訳ですけども、その後、あそこに婦人教育会館が出来ましたね。
 私は比企能員の死というものを、それは、お前さんの最員の引き倒しだと、言われてしまえばそれまでなんですが、やはり私は、彼が何で丸腰で北条邸ヘ行ったかというのは、正に畠山と同じような深い意味があったんではないかと思うんですね。やはり、折角新しい武家の時代が来たのに、同じような力がある北条と争って、折角頼朝を中心として成立した武家の世がおかしくなって来ることは、これは忍びえないというような、何か意味合いがあって、あえて丸腰で行ったんだというような解釈をしました。「滅びざるもの」の中では、そういうものにスポットを当てて、脚本を書かせてもらったこともあり、比企一族顕彰会の会報3号に書きました。
 この土地柄はですね、敗北してるんです。負けたんです。戦争では。
だけれどもそうじゃない、もっともっと高い理想を追求していたんじゃないか。畠山しかり、比企にもあったんじゃないか。こういうものを掘り起こすことによって、比企は自然に恵まれている、歴史風土も立派、それから、東京にアクセスがいい、ということだけではなくて、正に人道の起点というに足るだけの歴史的な蓄積があるんではないかと思う訳ですね。
ですから、今言ったように比企市というものが出来れば、安岡先生の言う新自治主義も、小柳先生の人道の起点の顕彰も充分に出来て、これは日本はおろか世界に堂々と発信できるんじゃないかと思う訳です。この自然を活かして生きる日本民族、日本国であれば、正にアインシュタインが言うような日本を描いて行くことが、我々日本が世界に評価され、生かされ生きていける道ではないか、というようなことを思っておる訳ですね。それでこれを書かせてもらったということであります。呉善花の脱亜超欧
 それから、呉善花さんという方なのですが、この方は、私が代表をしている文明論講座で二度ほど呼んでおります。韓国の済州島出身の女性で、『スカートの風』の著者ですが、最近大分著名人になりまして、渡部昇一さんと対談した本も出しております。「善花さん貴女は清少納言だ」なんて渡部さんが言ってんですが非常に才女です。彼女はたまたま日本に来たんですが、日本語を学ぶため大東文化大学に来てんですね。高坂も知ってるそうです。
彼女が言ってるのは、韓国では李承晩以来、全て日本がみんな悪い、ですからね。日帝の三六年ですからね。しかし、日本に来て、彼女は自分が如何に間違っているかと驚いたそうです。又、こんなに高い文明国でありながら、何で日本人は自然と話をするんだろうと、信じられないって言うんですね。何故かというと、日本人を見ると例えば、農家の方々が田聞に行って、たわわに実ったものを見て、オオッてさすったり、或いはお年寄りが花と会話していると言うんですね。私らにとっては何でもないことですが、彼女はこの民族は何だって、ピックリしたって言うんですね。
 というのは、日本は、遠の昔に失ってしまった本当に素朴な人類の心を失わずに、しかも古いアジアにないものがあると言ってます。彼女は古いアジアからは展望は拓けないって言うんですよ。中国だとか、ああいう所から新しいものは出来ないですよ、と言ってるんですね。やはり、中固なんかも、言いたくないけどちょっとおかしいですよね。纏足とか置官とか、どう思いますかね。遊牧民といっても、ちょっと人工的ですよね。日本は良かったですよ。あんな変なものを入れないでね。
 それで日本はアジアの古いものとおさらばして、しかも、ヨーロッパも超えている、脱亜超欧、アジアも欧州も超える。言うなれば、日本の持っている、正に古神道、かんながらの道なんですね。山川草木と語り合い共生出来る自然の姿、これこそ人類の宝であると言ってます。
彼女は韓国では評判が悪いんだと思いますが、非常に魅力的な女性でございまして、稲原さんは、文明論講座に彼女が来ると、出席するという困ったものなんですけど。まあ、それだけ彼女に魅力があるということなんでしょう。
角田忠信先生の学説
 いずれにしても、何故日本人が素朴かというと、僕がお世話になっている角田忠信先生が仰るには、右脳左脳が巧く使い分けられる日本語にあるらしいです。アメリカ人でもドイツ人でもアフリカ人でも、日本語を喋らせると、日本人と同じような右脳左脳の構造になるそうです。つまり、左脳でもって、雨音、滴、或いは虫の音、角回先生が発見したのはコオロギなんですね。自分の書斎で研究されていたのはコオロギなんです。何とまあうるさいなあ、気になってしょうがないと、そこで、たまたま波長を調べたら、何のことはない、左脳が反応しちゃってんですね。つまり、日本人は意味あるものと感じちゃうんですね。他の民族はみんな雑音なんです。ところが日本人は、例えばヒグラシの鳴き声に、来た、そろそろ夏休みの宿題をやらないと、ってもんですね。そういうように本当に自然に反応出来るんですね。それは何だ、日本語なんだと。日本語を喋っちゃいますというと、そういうようなものになるんですね。
 だから、人類が本当に平和を志向していくためには日本語を普及するといいんですね。英語じゃなくてね。喧嘩をやるには英語はいいですね。日本語つてのは穏やかなんですね。韓国人は言い方が激しいらしいですね。日本語なんですって、結論は。
 こういうのを母音構造っていうんですけども。こんなものを持ているのは、唯一、ミクロネシアの方にいる原住民ですね。日本人と同じ母音型の言語を使っているらしいですよ。日本語は韓国語と近いっていうけど言語学的に全然違うらしいですね。むしろ、源流というのはあっちの方らしいです。まあ日本列島は、南からも北からもで、あっちこっちから来たと思いますよ。来たと思うんですが、どうも、日本の根本的な、基礎を作っているのは、今、言ったような言語構造っていうのは、簡単には変わらないようですね。
 そうすると、日本人のもっとも底の方にあるのは、縄文時代っていうんですけども、あれは一万年続きますから、何とも言いようがないんですけども、南太平洋の方の、あの辺の連中と共通するものをもっているんですね。ああいう連中は、未開って言っちゃ失礼ですけども、日本人に限つては、堂々とですね、アジアの文化を入れ、西洋の文化を入れ、尚かっ、日本人のこういうものを失わずにいることは、正にこれは世界の奇跡だと、世界で一番の秘境、それは日本列島、だと言ってましたから。まあそんなことを言ってますんで、最後に付け加えておきます。