松山陣屋跡

東武東上線・東松山駅の東口から、飲食店が並ぶ「ぼたん通り」、百貨店・丸広が面する「丸広通り」と、北へ10分ほど歩くと、交差点の一角に東松 山市役所がある。その庁舎と通りに挟まれるように、高さ約2メートルの石碑がぽつんと立っている。正面には、「前橋藩 松山陣屋跡」の文字。1979年、 地元の有志「松山陣屋研究会」が建てたものだ。

15回近く移封を命じられ、「引っ越し大名」の異名を取った川越藩主の松平直克(なおかつ)が、松平家が約100年過ごした川越藩から前橋藩(現 在の前橋市)に移ったのは幕末の1867年(慶応3年)。その際、残された飛び地約6万2000石を統治するため、いわば役所の出張所として設けたのが松 山陣屋だった。だが、5年足らずで廃藩置県を迎え、その役割を終えた。

「松山陣屋は江戸時代、国内最大規模にして最後の陣屋。土塁、空堀なども備え、前橋城の支城といってもいいほどでした」

松山陣屋藩士の子孫で元特定郵便局長の高島敏明さん(63)は、石碑を見つめながら、誇らしげにこう語った。

陣屋の敷地は、現在の市役所、松山第一小学校の一部を含む総面積約8万7500平方メートル。高島さんや研究会によると、約260人の藩士が働 き、南側の外陣屋には藩士屋敷など約40棟を構えた。八幡神社付近には鉄砲の練習場もあった。日光裏街道の宿場町でもあった松山は、近郊の農民と合わせ約 1600人が住み、ずいぶんにぎわったようだ。

江戸時代最後の“出張所”松山陣屋跡の石碑前で思い出を語る高島さん(左)と兄の啓行さん。ともに陣屋や松平家の研究を続けている。