武蔵野燃ゆ

刊行によせて

比企総合研究センター代表 髙島 敏明

武蔵武士を評した人口に膾炙(かいしゃ)した言葉がある。曰く、「関八州は天下に敵し、武蔵の兵は関八州を制す」。この武蔵武士の生き様、悲哀、美学、それを支えた女達の複雑な想念、そして間奏曲の如く武蔵の武士(もののふ)と姫たちとの淡い恋心を綴ったのが本書であろう。

ところで、本書刊行の契機となったのは齊藤喜久江、齊藤和枝著『比企遠宗の館跡』(まつやま書房二〇一〇年一〇月五日発行)を目にしたからである。同著は比企家の末裔として、同家の八〇〇年にも及ぶ口伝、伝承を集大成したものであった。詳細は同著に譲るが源頼朝乳母比企遠宗夫妻は鎌倉を坂東支配の拠点とする源義朝の命を受けて川田谷(現桶川市)から和泉(現比企郡滑川町)に館を構えたという。通称三門(みかど)館であり、その遺蹟は現存している。遠宗が川田谷から移構した勅願院泉福寺には定朝様式の金色眩い阿弥陀如来が今なお伝えられている。戦前は国宝であり、戦後は重要文化財になっている。

当時、義朝と多胡(群馬県)から進出してきた弟の義賢は北武蔵の覇権を巡って激しく争っていた。三門館は義賢打倒の最前線に位置する。義賢の居館、大蔵館とは指呼の間、五キロほどである。そして、義朝側と義賢勢が干戈(かんか)を交えた大蔵合戦(一一五五年)は武蔵武士のヒーローが全員集合した観があった。因みに義朝の長男悪源太義平は正代館(東松山市高坂)から叔父の義賢を襲い、殺害した。武蔵国留守所惣検校職を巡って秩父平氏は骨肉の争いを展開していた。これが大蔵合戦の背景にある。畠山重能(重忠の父)は叔父の重隆(後の河越氏祖)を討った。そして幡羅郡長井庄の斎藤別当実盛は義朝に与(くみ)した。齊藤氏の同著によれば頼朝乳母比企禅尼(遠宗夫人)は実盛の妹であるという。敗れた義賢の遺児駒王丸は畠山重能、斎藤実盛の手によって乳母夫中原兼遠を頼って木曽谷に落ちのびた。後の旭将軍木曽義仲である。蛇足であるが三年に一度斎行される萩日吉神社(比企郡ときがわ町)の流鏑馬は義仲を供養したものであり、大蔵館跡は大蔵神社として祀られている(比企郡嵐山町)。又、比企郡滑川町福田の浅間神社は義賢の遺臣が義賢の霊を祀ったものである。

大蔵合戦は一般的には義朝、義賢兄弟による北武蔵争奪の局地戦と考えられているが一知半解というべきだろう。摂関家など中央勢力が相方をバックアップしていたのである。悪左府藤原頼長と義賢との男色関係は夙に著名である。大蔵合戦は翌年(一一五六)帝都で勃発した保元(ほうげん)の乱の前哨戦、代理戦争と考えるべきものである。天皇側、上皇側と朝廷勢力をも二分した保元の乱によって武家貴族ともいうべき源平二氏が歴史の表舞台に登場した。大蔵合戦の火の粉は帝都に飛び火、帝都を炎上したのである。長らく続いた平安の世の終焉であった。そして、勝者平清盛の率いる平氏と源義朝の率いる源氏はその三年後に雌雄を決することになる。平治の乱(一一五九年)がそれである。頼朝はこの平治の乱に敗れた義朝の嫡男である。清盛継母の池禅尼の必死の助命嘆願によって頼朝は一命を取りとめ伊豆の蛭ヶ小島に流されたわけである。そして、この流人頼朝を二十年の長きにわたって物心ともに支援し続けたのが乳母の比企禅尼を筆頭とする比企一族であったわけである。私は平安末期に展開した当地方での大蔵合戦、そして帝都での保元の乱、平治の乱、頼朝流罪と郷土の比企氏を中心に大まかなストーリーを描くことが可能だと考えた。そこで旧知の女流作家篠綾子先生に本書となる歴史小説の執筆を依頼したのであった。

ここで私事になるが二、三思い出を語らせて頂きたい。私は郷土の歴史に埋もれた比企一族の発掘、顕彰こそ当地方覚醒の狼煙になるという信念・直覚から比企一族をテーマとした郷土史劇を構想した。ついては、私の東京での勉強会「社会人大学文明論講座」(昨年十一月三十周年を機に閉講)の仲間、畏友である劇作家の湯山浩二氏(昭和五十八年度文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞)に脚本の制作を依頼し、当地方を案内させて頂いたわけである。同氏は当地方の歴史遺産に瞠目(どうもく)され、「何故今まで誰も手をつけていないのかなぁ」と嘆息されたのであった。同氏の作品、演劇「滅びざるもの」は私どもがお預かりしていた東松山松葉町郵便局開局十周年の記念事業として平成五年当市の文化会館で上演されたわけである。そして、翌年の平成六年日本歩け歩け協会(現日本ウオーキング協会)発足三十周年の記念公演として東京の日比谷公会堂で再演されたのであった。同劇はその後も平成八年、平成十二年と計四回上演されている。集客数延七〇〇〇名余になろうか。定員四名の特定郵便局(当時)が仕掛けたイベントとしては空前絶後であろう。同局のイベントを誌した碑が六〇〇名余の浄財を得て比企氏ゆかりの扇谷山宗悟寺(東松山市大谷)境内に建立された。「比企一族顕彰碑」がそれである。同碑は当地方が比企氏の地であることを内外に示す金字塔であるといえよう。

さらに時代を遡及する。今から三十余年前のことになろう。郷土の師父と敬慕する関根茂章先生(五期嵐山町町長、県教育委員長、初代名誉町民、故人。拙著『日本文明論と地域主義』で同氏を紹介)と郷土の歴史を語った折りに「郷土の生んだ歴史上の人物、英雄である畠山重忠や木曽義仲を主人公とする小説を誰か書いてくれないかな」と言われたことがある。郷土の歴史を多くの地元住民に知らしめ、後世に伝えていきたいという熱き想いがあったからであろう。私も賛意を表したが徒らに歳月が流れてしまった。しかし、今度篠綾子先生によって年来の想いが実現したわけであり、誠に感慨深いものがある。ただ関根先生との対話の中で比企氏のことは語られなかった。比企氏の存在が地元民の口の端にのぼるようになったのは平成五年の演劇「滅びざるもの」以来である。

私は何故か郷土の名族比企氏に縁があったようである。私は演劇「滅びざるもの」の上演、比企一族顕彰碑の建立、『甦る比企一族』の発行、比企能員息女で二代将軍頼家夫人の若狭局を創作日本舞踊「若狭」で表現した。又、地酒「比企三姫」を自局商品として開発した。因みに丹後局(比企禅尼長女、島津家初代忠久生母)、姫ノ前(比企朝宗息女、絶世の美人で権威無双の官女)、若狭局である。この「比企三姫」は東松山市松葉町の「日の義」酒店で販売されている。さらに二〇〇二年の比企氏の八〇〇年遠忌に因んで映像「比企讃歌」を企画、制作した(一二〇〇本ダビング)。これらは巻末の比企総合研究センターのホームページで見ることができる。そして、今回の小説の刊行である。関根茂章先生の御高著『師父列傳』の跋文に次の一節がある。曰く、「真の郷土の振興は、先人の遺風業績を新たに掘り起こすことから始まる。過去を継承せずして健全な未来の創造はあり得ない。」私はこの関根先生のお言葉、信条を私なりに地で行ったのであろうか。

いずれにしても篠綾子先生の健筆によって郷土の名族、英雄が小説として甦った。比企地方の比企、畠山両氏、お隣りの河越氏、そして武蔵、相模へとそのスケールは大河ドラマにふさわしい内容となっている。本書『比企・畠山・河越氏の興亡 武蔵野燃ゆ』は私の期待に十二分応えたものであり、同先生の力作、渾身の書き下ろしである。私は改めて先生に深甚な謝意と敬意を表したい。そして、篠先生も又本県のご出身である。先生の中に潜む目には見えない土地の遺伝子、シェルドレイクの「形態共鳴論」のなせる技であったのだろうか。

最後に比企総合研究センターで小説を刊行するのは最初にして最後であろう。発売の労をとって下さった「まつやま書房」、本書表紙カバーとして演劇「滅びざるもの」のポスターを再度使用させて頂いた古川勝紀画伯に改めて謝意を表したい。本書は郷土史でもある。地域に生きる私どもの原点、ルーツはここにある。是非ご一読願いたい。

平成二十六年初夏

東松山市 陣屋亭記