比企桃源郷構想試論

映像『比企讃歌』

私の知人がこの「春蘭忌」のことを元環境庁長官の志賀節先生にお話したところ先生日く「政治家の冥利に尽きる」と。

さて、小林君が浄土に旅立たれて先日十三回忌を迎えました。そして、この「春蘭忌」も今回で十回とのととです。茂雄君もさぞか

し喜ばれ、同志の皆様に感謝していることと思います。

ところで、本日のテーマは比企地方の市町村合併の問題と関連があります。小林君が県議選に出馬された時「チャレンジ8」として八つのテーマを掲げましたが、その第一は「自立した比企広域都市を創造しよう」ということでした。小林君にとって比企市町村の合併は最大のテーマであったのだと思います。そうした意味で私も小林君の志を私なりに継承させていただいております。

さて、本日ははじめにビデオ「比企讃歌」をご高覧いただきたいと思います。このビデオは五年ほど前の二OO二年に制作いたしま

した。この年は比企一族が北条氏の謀略によって減命ほされたのが一二O三年ですので八OO年遠忌にあたります。八OO年に因んで、いわば比企氏の供養のために制作したのがこのビデオです。内容的には比企氏を中心に郷土の歴史や伝統芸能、さらに比企の山河をコンパクトにまとめたものですが、それと同時に現在当地方で進行している市町村合併の問題をからませております。もっと正確に申し上げますと現在当地方で進行している市町村合併の問題を歴史を踏まえて未来を展望するという視点から考えてもらうために制作したわけです。第一回の「春蘭忌」の講師をされた関根茂章先生のご高著『師父列惇』の政文に次のような言葉があります。

真の郷土の振興は、先人の遺風、業績を新たに掘り起こすことから始まる。過去を継承せずして健全な未来の創造はあり得ない。

この言葉は市町村合併を考える基本的視点ではないかと思います。さて、ビデオのスタッフですが演出は映画「男はつらいよ」等のプロデューサーであり、現在は同社会計画研究所代表の斉藤次男氏、撮影は日本テレビ「素晴らしい世界旅行」のカメラマン朝田健治氏、ナレーションは元NHKのアナウンサー和田篤氏で上映時間は三十五分です。

ビデオ「比企讃歌」はいかがでしたか。比企の山河を空撮する為に川島町にあるホンダのエアポートからカメラマンとセスナ機に同乗しました。空から眺める比企の山河は文格別のものがありました。ところで、このビデオの中にでてくる演劇「滅びざるもの」は郷土史のルーツともいうべき比企一族をテlマとした歴史劇ですが、この劇は私がお世話になりました東松山松葉町郵便局開局十周年の記念事業として平成五年に企画、上演されたものであります。坂東武者として熊谷直実や畠山重忠はそのドラマ性の故もあって今なお人口に膳笑し、民謡にまでなって慕われております。それに比して比企氏のことは余り知られておりません。比企氏は源頼朝の乳母の家系で鎌倉武家政権の樹立に果した役割は直実や重忠よりもはるかに偉大であったにも拘わらず北条氏に滅、ほされたということもあって当市に根拠地があったといわれながらその館跡等は今なお不明であります。私はかねてよりこのことを残念に思い、何とかして比企氏を世に出したいと願っておりました。そこで思いついたのがドラマ、演劇という手法です。これならフィクションでいいわけです。幸い知人に鎌倉在住の劇作家湯山浩二氏(文化庁舞台芸術創作奨励特別賞受賞)がおり、彼に脚本を依頼しました。文、上演は地元で長らく演劇活動を続けている東松山市民劇場にお願いしました。こうして生まれたのが郷土史劇「滅びざるもの」(三幕、上演時間二時間)であります。この劇は平成五年十月当市の文化会館(当時)で二日間にわたり、二回上演され、二千人の観客に多大な感銘を与え、大センセーションを巻き起こしたのでした。その後、思いがけないことが起きました。ご案内のように当地方最大のイベントとしてウォーキングの祭典日本スリーデーマーチがございます。たまたま同劇を観劇されていた日本歩け歩け協会(現日本ウオーキング協会)の金子智一会長(当時)の要請で同協会発足三十周年の記念公演として東京の日比谷公会堂で上演してほしいというのです。華のお江戸での興業ということで我々はさらに技を磨き、情熱を傾けました。平成六年六月の日比谷公会堂では薩摩琵琶の弾奏も入り、歴史物にふさわしい荘厳なものとなり、満場割れんばかりの喝采を博すことができました。これを機に私は比企氏とゆかり深い扇谷山宗悟寺に比企一族顕彰碑の建設を提案したところ七OO名からの賛同者を得ることができました。この顕彰碑こそこの地が比企氏の里である乙とを内外に示す金字塔であり、当地方の街おこしの起点であると確信しています。

我が郷土比企の里

ところで、このビデオを川越在住の知人にお見せしたところ彼日く「川越は比企にかなわない、山がないから」と言っておりました。

比企の第一の特色は山があり、丘陵、台地、そして平地、川と自然の景観がそのまま郡下に展開していることです。こうした地形を人閣の舌のようにせりだしているので舌状台地というそうです。舌状台地は背後の山の資産(木材、鳥獣肉、キノコ、山菜等)、前面の豊かな耕地(麦、蕎麦、米、野菜等)、川の資産(魚、砂鉄、水上運送等)、そして牛や馬の放牧であり、さらに背後の敵、前面の敵からの攻撃を山と川で防ぐという天然の要害なのです。壬口状台地は人間が古来から住みやすい理想的な居住条件としてきたものでした。それ故、比企には縄文、弥生の時代から数多くの遺跡が発掘されています。比企のように舌状台地が幾重にも重なるところが」大舌状台地といいますが、首都圏では丹沢山塊の麓にある秦野市(比企氏の出身地)に見出されるくらいです。比企の地理的条件、自然環境は大舌状台地という理想的な土地柄なのでした。

次に当地方の歴史風土を考えてみたいと思います。当地方が歴史日本史の槍舞台に踊り出たのは今からおよそ八OO年ほど前の源平合戦であり、鎌倉時代の草創期でありました。比企の脚光を浴び、の地名を名乗った比企氏は源頼朝の乳母の家系で比企能員は二代将軍頼家の外戚になっています。又、嵐山に館を構えた畠山重忠は坂東武士の亀鑑として名声を博しました。党と称する中小武士団もこの変革の時代に大いに活躍しています。鎌倉武家政権を樹立した武蔵武士の根拠地、それが比企であったわけです。そして、鎌倉時代乙そ日本が文字通り日本になった時代でありました。それまでの奈良、平安の社会は中国輸入の律令国家であり、平城京、平安京といった都城も唐の都長安を模したものでありました。朝廷や公家に対して新興勢力である武士団は開拓農場主であり、日本の大地から族生した種族です。そこで、政治の中心は京都でなく坂東の草深い田舎の鎌倉に置かれ、朝廷=権威、幕府=権力という二権分立ともいうべき我国独特の全く新しい統治形態が生まれたわけです。そして、それは明治維新まで続きました。文、宗教も鎌倉仏教が誕生することによって一般民衆のものとなりました。奈良、平安の社会は先進文明中国の亜涜、衛星であったわけですが、中国の影響とは関係なく文字通り国内の変革として源平合戦が闘われ、その結果日本の大地に根ざした政治、文化、宗教が誕生したわけです。文明論的にいえばここに日本文明が確立したのです。それ故、鎌倉武家政権の誕生は日本の歴史にあって時代を画する最大の事件であったことがわかります。比企氏や畠山氏を代表格として我が郷土の先達は新時代を切り開く原動力として活躍したわけです。これが誇りでなくて何でありましょうか。比企こそ武蔵武士の故郷として由緒ある土地といわねばなりません。

ところで、自然環境や生態系、あるいは歴史風土といったものはお金で買うわけにはまいりません。真に価値あるものは先人の努力、血と汗の結晶であり、お金を超越したものといえます。幸い比企にはこうした真に価値のあるものがあるわけです。現在首都圏を中心に大震災の恐怖がありますが比企の土壌は堅固であるといわれております。私の知人の証言によれば企業のソフトや政府の機密事項、あるいは貴重品を保管する施設が嵐山町にあると言っておりました。さらに当地方は都心より五01六0キロ圏にあり、高速道路等のアクセスもいいわけです。首都圏にあってこうした自然の豊かさ、歴史風土、安心、安全の地が他にあるでしょうか。私が比企地方を桃源境と呼ぶ所以であります。

ここで桃源郷という言葉が出たのでとの語の由来である陶淵明の桃花源詩を紹介しておきます。

相命じて農耕を躍し、日入りて憩う処に従う

桑竹余蔭を垂れ、寂稜時に随って芸う

春蚕長糸を取り、秋塾するも王税廃し

荒路峻として交通し、鶏犬互いに鳴吠す。

(人々は桃の花の真っ盛りの下で畑を耕し、作物の手入れに余念がない。日が暮れれば仕事をやめて休む。桑の葉や竹が豊かに茂つて緑の蔭を落とし、作物は季節に応じて適切に栽培される。春は蚕の糸をとり、秋には収穫物が一斉に実り、熟する。しかし、収穫に応じて国ヘ税金を納める必要は無い。騒がしい街に通ずる道はどこにあるかわからず、どこかでのんびりと、鶏と犬が、互いに鳴いたり、吠えあったりしている。)地方分権と市町村の合併

二OOO年四月一日に地方分権一括法が施行され、分権の受け皿としての市町村の合併が推進されるようになりました。この時の合併は合併特例債という多額な補助金の特典があり、当比企地方でも様々な動きがありましたが最終的には都幾川村と玉川村が合併して昨年の二月一日にときがわ町が誕生するにとどまりました。市町村の合併については地域住民の意識の高まりが前提とされますが、般の住民にとっては夕張市のように財政破綻して生活を直撃しない限りはそんなに切実な問題ではありません。そこで合併について大切なのは財政状態をはじめとして現在の自治体の置かれた状況を知悉している首長や議会人などの見識や情熱が決定的ではないかということです。私の所属する「比企はひとつの会」では去る六月二十四日に会発足二周年の記念講話会を開催しました。講師に総務省の丸山淑夫合併推進課長をお招きしました。文、首長や議会代表にもご参加いただき各自治体の取り組みや今後の展望について話していただきました。丸山課長によれば平成十七年四月一日から五年間施行される合併新法の期間内に合併することが望ましいこと、又合併に至るまでに諸準備として二年間を要すること、従って合併について話し合うことができるのはこの一年間であるというご指摘をいただきました。我々としては首長や議員という地域のリーダーが集合したこの会が比企地方の合併に向けての力強い一歩であってほしいと願っています。

ところで、具体的に比企市町村の合併について申し上げますと「比企は一つの会」では当初比企市町一市七町に東秩父村を加えた一市七町一村を考えておりました。合併新法に基づく県市町村合併推進審議会の試案では川島、鳩山を除く比企市町に東秩父をくわえたものになっています。我々としては比企郡である川島、鳩山の二町を加えたいわけですが現実の問題として川島町は川越市との合併を強く望んでいます。又、鳩山町も越生町や毛呂山町、坂戸市といった入間地区との関係が深く難しいようです。そこで、比企はひとつの会でも二町は止むを得ないと考え、一市五町一村による比企広域都市の実現を考えています。東松山市、小川町、嵐山町、吉見町、滑川町、ときがわ町、東秩父村、それぞれ風土が違い個性があります。こうした市町村の本来持っている個性、魅力、多様性を十二分に生かすこと、そしてそれを一つに束ね、統合すること、これが比企広域都市の果すべき役割です。ダイヤの価値は大きさだけでなく光沢を放つカットにあるそうです。比企も一市五町一村のカットによって燦然と輝くのではないでしょうか。しかも、二十万人余の特例市の誕生となります。行政効率の一番いいのはこの程度の規模の自治体であると丸山課長もおっしゃっておりました。 市町村合併は時代の要請であるといいながら挫折する例も多々あります。その一因は合併するととによってどんな街ができるのか、あるいはどんな街にしようとしているかのヴィジョンが欠如しているからではないでしょうか。未来に対する明るい展望ではなく、合併による市町村の利害得失、損得勘定だけでは人は燃えません。やはり合併を意義あるものとするには夢やロマンが必要だと思います。比企の市町村合併でもこうした話は全くでなかったように聞いております。これでは挫折しても不思議ではありません。市町村の合併が財政難に苦しむ自治体が手をとり合って何とかやっていこうとするだけでは寂しい限りです。そうではなく、これを奇貨として今までのように上からの押しつけではなく自らの街を自信と責任を以って自ら造り上げるという気概が大切ではないでしょうか。国の方も分権という地方の切り捨てではなく、地方の持つ力を信じて任せるという気持ちが肝要なのではないでしょうか。そこで、比企広域都市の実現の一助になれればと思い二十の提言をさせて頂きます。この提言自体深く考えたものではなく思いつきに過ぎません。比企の将来にとって何かお役に立てばと思い、恥をしのんで披露させて頂きます。

比企の将来に向けて二十の提言

(一)治山、治水について

古今東西を問わず治山、治水は人間生活の基礎、土台である。現在山や川は荒れ放題になっているが、その因は山や川で生活できなくなったからである。木材についていえば廉価の外材がいくらでも手に入り、国産は一部を除けば経済的に成り立たないわけである。だからといって山や川を保全しないわけにはいかない。幸い比企にあっては山も川も比企の地で完結している。新たな公共事業の対象として治山、治水を考えるべき時にきていると思う。公共事業として年度末道路の整備が恒例になっているがこれは不要である。その金を治山、治水に回すべきである。ここで治水という時、河川敷の清掃や工場排水等の規制を含む川の清涜化であり、文治山も広葉樹等の植樹による植生の豊かさを意味している。自然に恵まれた比企ではあるが、先ず第一に一大清掃を提案したい。何事も人手が入らねば駄目である。ボランティアで参加してくれる可能性もあると思う。

(二)独立自尊から自立、扶助ヘ

現在の我国には確固とした生き方、考えが存在しない。敗戦による御仕着せの民主主義や自由主義、個人主義等は現に見る通り心もとない限りである。そこで、私は個々人の生き方として自立、扶助の考え、精神を提唱したい。人が信頼され、尊敬されるにはその人なりの地位、立場にあって存在価値を発揮せねばならない。人にとって自信や誇りがないほど惨めなことはない。それには先ず自ら拠って立つ自立の精神老酒養することである。そして、自立した個人はできる範囲で仲間に援助の手を差し伸べることである。すなわち、扶助である。この考えは宇宙、自然の姿を見ても首肯できると思う。動植物は皆それなりに独立して生きており、その深い根の部分で助け合って自然の生態系を維持している。ダーウィン流の弱肉強食や植物連鎖は自然界の表相部分に過ぎない。むしろ相互に助け合って生きているのが真実である。それ故、生態系や種の多様性が存するわけである。

ところで、近代日本のイデオローグともいうべき福沢諭吉は「独立自尊」をモットーとしたが、この言葉には福沢の育った環境が反

映していると思う。「門閥制度は親の仇」と喝破した福沢にとって旧体制の姪桔からの解放と近代的自我の目覚めがこの「独立自尊」という言葉に集約されたと考えられる。しかし、現在はこの近代的自我、個人主義乙そ、克服すべき対象となっている。これからの時代は「脱亜入欧米」ではなく「脱亜超欧米」ということである。新時代のモットーは「自立、扶助」でなければならないと考える。大正十一年に来日されたアインシュタインは日本の家族制度を称賛し、欧米の個人主義を批判している。日く「日本の家族制度ほど尊いものはない。欧米の教育は個人が生存競争に勝つためのもので極端な個人主義となり、あたり構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみとなった。家族の粋はゆるみ、芸術や道徳の深さは生活から離れている。激しい生存競争によって共存への安らぎは奪われ、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独にしている。日本は個人主義はごく僅かで、法律保護は薄いが世代にわたる家族の紳は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。この尊い日本の精神が地球上に残されていたことを神に感謝する。」

時にニートと称される引き龍もりの青年が少なくなく社会問題となっているが、こうした人達こそ社会支援により自立、更生させねばならない。この世に生を享けて世の中の役に立たないほど気の毒なことはない。今生に生を享けた以上誰しも唯一無二のかけがえのない存在であるはずである。ニlトに対しても「自立、扶助」の精神で立ち直すことである。

(三)一灯行の実践

この比企の地(官谷)に昭和六年安岡正篤によって日本農士学校が創設された。安岡は日本陽明学の泰斗であり、歴代総理の指南役、平成元号の提唱者として夙に高名であり、著書はベストセラーになっている。「春蘭忌」第一回は関根茂章先生による「安岡正篤の世界」であった。

ところで、安岡教学のスローガンはご灯照隅、万灯照国」である。これは読んで字のごとくであるが実践してこそ意味があるわけである。そこで、比企の住民に提唱したいのは一灯行の実践である。一灯行はその人の能力、資質、立場に応じて努力すれば可能である。比企の人達が皆一灯を点ずれば比企の地が燦然と光り輝くこと間違いなしである。自分のできることで一灯を点じ社会参加するほ尊いものはないと思う。「一灯照隅、万灯照国」の持つ意味と意義、重さをかみしめるべきである。

(四)比企自治大学校の創設 安岡正篤によって創設された日本農土学校は敗戦によって解散させられたが、その後幾多の変遷を経て現在は郷学研修所がその衣鉢を継いでいる。安岡の日本農士学校の理念は農業を営みながら地域発展の礎となる有力にして無名の人材を養成することであった。日本農士学校の出身者は安岡の意を体してそれぞれの地で汗を流し、地域発展の柱石となったのである。そして、平成の大合併による地域の自立と地方分権が唱導される今こそ往時にも増して地域に生きる人材の育成が急務となっている時はないと思う。私は日本農士学校の現代版ともいうべき比企自治大学校の創設を提唱するものである。又、文明の中心が西洋(欧米)から東洋へ移行する中で(村山節『文明の研究』参照)、安岡記念館を含めて同校を東洋学のメッカとすべきと考える。

(五)人道の起点と道義国家への道

嵐山町を流れる都幾川の清流に沿って二キロメートルも桜並木が続いている。その一角に「人道振興の地」と大書された碑が立っている。これは何の謂であろうか。市井の大儒小柳通義(一八七0~一九四五)は坂東武者の亀鑑と植われた畠山重忠に深く傾倒し、地元の方の協力を得て菅谷館跡に畠山重忠の像を建立した。その折、易学の大家でもあった小柳は「ここは人道の起点である。日本の人々も、世界の人々もきっと集まって来る」と話したという。事実、この地にはその後日本農土学校が創設され、文県立資料館、そして全国で唯一の女性教育会館が建設されたのである。殊に日本農士学校は畠山重忠の像が招いたと伝えられている。いずれにせよ、菅谷館跡は比企における文化の一大拠点であり、現に内外の人を集めているわけである。

ところで、我国の将来のあるべき姿を考えた時、横井小楠(一八O九~一八六九)の人口に膳笑した次の言葉がある。

明尭舜孔子之道 尭舜孔子の道を明らかにし

尽西洋器械之術 西洋器械の術を尽くさば

何止富国 なんぞ富国に止まらん

何止強兵 なんぞ強兵に止まらん

布大義於四海而己 大義を四海に布かんのみ

我国の戦前は軍事大国の道であり、戦後は経済大国の道を歩んだが、日本が世界の人々から信頼され、評価されているとは必ずしもいえないと思う。我国が名実ともに諸外国から尊敬されるには東亜王道の理念を掲げて道義国家への道を歩むことではあるまいか。西洋列強の支配する幕末にあって小楠は道義国家という我国の進むべき道をいち早く指し示したわけである。こうした未来に対する展望を得た時、この比企の地こそ人道の起点として道義国家建設の第一歩を記したわけである。小柳道義のいう人道の起点は正に千釣の重みがあるといわねばならないだろう。

(六)比企神社の創建 比企広域都市誕生の暁には住民の心のより所として、又広域都市誕生の画龍点晴として比企禅尼をご神格とする比企神社を創建すべきと考える。比企禅尼の偉大さについては改めて説明する必要はないであろう。源頼朝が天下の草創と呼んだ鎌倉武家政権の樹立は禅尼の存在なくしてはあり得なかったわけである。

(七)小京都サミット、万葉の里 比企地方の西部に位置する小川町は武蔵の小京都といわれる景勝の地である。そして、京都のように和紙、織物、酒など地場産業が盛んであり、七夕、も有名である。小川町に隣接した嵐山町の槻川渓谷は京都の嵐山に似ているということで本多静六博士によって武蔵嵐山と命名された。いわば比企地方の中庭に小京都が存在するわけである。日本全国で小京都といわれる所は五Oほどあるというが首都圏ではここだけではないだろうか。一大財産であると思う。そして、伝教大師最澄も学んだという都幾山慈光寺は比叡山延暦寺に見たてることができるだろう。文、京都の夏の風物である貴船の床を槻川渓谷に作ることはできないであろうか。そして、比企広域都市が誕生した暁には全国の小京都に呼びかけ、小京都サミットを開催すべきと考える。又、小川町は近年比企能員の遺児といわれる仙覚律師を顕彰している。仙覚律師は万葉集の研究に不滅の足跡を残し、同町の陣屋台に昭和三年巨大な記念碑が建立された。今回は七Oの万葉歌碑(木製のモニュメント)が市街地にお目見えした。同町は目下万葉の里として売出中である。

(八)日本スリーデーマーチについて

十一月の文化の目前後に三日聞にわたって開催される日本日本スリーデーマーチは当比企地方最大のイベントである。十キロ、

二十キロ、三十キロ、五十キロの各コースがあり、秋の武蔵野の自然を満喫しながらウオlカlは各自好みのコースを歩いている。国

の内外から参加者は十万人ほどであり、開会回数も二十九回を数え、文字通り日本一のウオーキングの祭典である。しかし、この日本スリーデーマーチも各地でウォーキングが開催されるようになり、より魅力ある祭典にするには一工夫する必要に迫られているといえよう。現在コースはキロ数によって作られているが、もう少しコースに変化を持たせてより多くの人に参加して頂くよう呼びかけるべきではないだろうか。

一例として、歴史街道コース、文学散歩コース、中世山城めぐりコース、寺社めぐりコース(比企西国三十三札所あり)等々である。

私は一昨年、昨年とウォーキング協会より依頼されて比企氏ゆかりの地の案内をさせていただいたが、参加者は二0~三O名と少なかったものの参加者から大変好評をいただくことができた。私、かスリーデーマーチに期待するものは武蔵野の自然を散索しながら「日本の心」を求めての比企巡礼の旅にすることである。又、歩くことがいかに健康にプラスしているか、ウォーキングの町比企にあっては老人医療にいかに反映しているか調査してみるべきである。そして、還暦を迎えた住民に万歩計を進呈すべきと考える。

(九)郷土の作家打木村治から子育てのメッセージ 打木は子供になくてはならないものとして美しい自然、お袋の愛情、そして程よい貧乏の三つを挙げている。打木村治は大阪の生まれであるが、かなりの年齢になってから少年期を過ごした唐子村(現東松山市)での小学校六年間の生活と思い出を『天の園』全六巻に綴った。この『天の園』は山本有三の守路傍の石』、下村湖人の『次郎物語』と並び称される児童文学の傑作であり、打木は同著で芸術選奨文部大臣賞やサンケイ児童出版文化賞を受賞している。そして、平成十二年には『天の園』ゆかりの地に有志による天の園碑が建設された。そこには「景色でおなかのくちくなるような子どもに育てます」という母親の言葉が刻まれている。

ところで、平成十七年にこの『天の園』は『雲の学校』のタイトルでアニメーション映画となり、当市で初公開され、近隣の市町村で上映されている。上映とともに打木のメッセージを伝えていきたい。なお、この映画は三部作が計画されており、第二部は主人公の小学校時代、第三部は旧制川中時代の『大地の園』である。監督は『フランダースの犬』等で高名な黒回目郎である。黒田によれば子供の成長する様を描きたいという。

(十)政治の要諦

「小人に夢を 大人に職場を 老人に安心を」政治はこの三つをしなければならない。

右記の言葉は地方自治体の長として二十年間尽摩された元嵐山町長、元県教育委員長、現嵐山町名誉町民の関根茂章先生より直接ご教授頂いたものである。 この中で小人に夢をに限っていうと郷土の歴史や人物伝を小学校のカリキュラムに入れてはどうであろうか。子供の時に郷土のことや郷土の生んだ偉人等について学ぶことは子供の夢や志を育む上で大切なことと思う。

(十一)表彰について

各分野で活動した人を讃え励まし、さらに活躍して頂くために表彰状を授与する。

一例として、比企文化賞、比企体育賞、比企ボランティア賞、比企美術・工芸賞、文学に関しては打木村治賞等々。

昨年訪れた鶴岡市では高山橘牛賞、か、文酒田市では土門拳賞があった。

(十二)特殊能力、異能者による村づくり 一例として芸術村、工芸村、スポーツ村(プロ野球のキャンプ場等)

時代はハードの物づくりから芸術、文化等のソフトヘシフトしつつある。殊に先進国にあっては付加価値を高めることが必要である。日頃から芸術や工芸に親しむことが大切ではないだろうか。イタリアのファッションや工芸などは参考になる。又、スポーツはその土地が元気になるのに有効である。

(十三)美の里 比企 人間は真、善、美を求めるといわれている。その中にあって比企は美を追求すべきと思う。美こそ真、善の核心をなすと考えられる。当市では花いっぱい運動を展開しているし、嵐山町や小川町では国蝶のオオムラサキを飼育している。花と蝶は美の代名詞であるが、この花と蝶こそ比企のシンボルとすべきではないだろうか。又、花と蝶の存在は良好な自然環境なくしてはありえない。花と蝶、そして自然環境は正に三位一体なのである。

(十四)成人式について

現在各地で成人式が行われているが着飾った女性のファッションショーのような観を呈している。成人式とは本来自らの属する共同体に一人前の大人として仲間入りする通過儀礼である。そこで求められるのは共同体、地域社会を支える人間の一人になったという自覚である。 私は成人式として共同体の基礎、土台である治山、治水にボランティアとして一週間から十日程度勤労奉仕をするのがいいと思う。又、共同体のお年寄の面倒をみること、即ち老人介護に挺身することである。こうした奉仕活動こそ共同体の一員としての自覚を高めるのに効果があると考える。比企郡下の玉川村(現ときがわ町)では消防の青年団組織が健在であり、郷土愛や団員相互の親睦をはかるなど教育効果を上げている。

(十五)比企の山岡部にセカンドハウスを 大都市に住むサラリーマンの間で田舎にセカンドハウスを持つことが流行っているという。通勤の関係で大都市に住まねばならないわけだが、週末や休日を広々とした空気のいい田舎で過ごしたいというのも肯ける。人間は緑なくしては生きられない。そこで思うのであるが東京とのアクセスも良く、又地震に強い比企地方の山間部にこうした都会人を受入れる農園つきの施設を考えたらいかがであろうか。彼らは日曜大工ならぬ日曜農民であり、土と親しむことはストレスの解消に役立つ。文、彼らが定年を迎えた時、そこに定住することも考られる。そして、新住民と旧住民との間で交流が深まればそこに思いがけない文化の発展や展開が期待できるのではないかと思う。

(十六)戦闘期山城の復元 小田原北条氏の支城として吉見町の松山城がある。この松山城を起点として東松山市の青烏城、嵐山町の菅谷城、杉山城、ときがわ町の小倉城、小川町の中城、腰越城、東秩父村の安戸城がある。これらの中には保存状態の良好なものがあり、復元できないであろうか。殊に松山城、菅谷城、杉山城、小倉城は今度国の指定文化財になった。観光資源にもなると思うがいかがであろうか。

(十七)比企一族の発掘、顕彰 郷土史のルーツともいうべき比企氏については専門家の間でも不明な点が多いという。いわば謎につつまれた一族ともいえよう。そこで比企広域都市が誕生した暁には市の教育委員会が中心になって比企氏の発掘、顕彰をすべきと考える。金剛寺の系図によれば比企氏は相模の波多野氏の出ということになっているが、この波多野氏が土着していた秦野市では市の課題として全国に散った波多野氏の追跡、調査をしている。比企氏は波多野氏にゆかりがあるというので二泊三日で市のスタッフが当地を訪れたことがある。この秦野市の例を見習うべきと考える。

(十八)松山陣屋商庖街の創設

現在の松葉町商庖街はかつて前橋藩の松山陣屋のあったところである。もう少し正確にいえば内陣屋と外陣屋の境界が道になっており、旧二五四である。

前橋藩松山陣屋は松平大和守家が慶応三年川越から前橋ヘ転封になった時、比企郡老中心に武蔵国の飛び地六万石を管理する為に置かれたもので江戸期最後にして最大規模の陣屋であった。そして、転封の翌年の慶応四年は明治元年であり、明治二年は版籍奉還、明治四年は廃藩置県であるから陣屋の機能をどこまで果たしたか疑問であるが東松山市が比企地方の政治、文化、行政の中心になったのは一つにここに陣屋が置かれたことによる。現在の市役所や松山第一小学校は陣屋の敷地内である。市役所の一隅に昭和五四年「前橋藩松山陣屋跡」の碑が有志によって建設された。 ところで、この松平大和守家は徳川家康の二男結城秀康の家系で、秀康の五男直基が結城家を継承して越前勝山の領主になってから江戸期最多の十三回も転封し、引越大名の異名をとった。さて、この松平大和守家であるがその宝物、遺品の類いは東京大空襲でことごとく灰屈に帰した。文、引越大名のゴ1ルとなった前橋も大空襲に遭い市街地の大半が被災した。それ故、関東の雄藩でありながら松平大和守家の遺品は僅少で川越に一OO年居住し小江戸川越を建設しながら岡市の博物館で松平大和守展を開催できないわけである。しかし、陣屋の置かれた当市には戦災を免ぬかれたせいかある程度遺品が残されている。そこで、昭和五四年に地元有志により『前橋藩松山陣屋』が発行され、平成十六年には松平大和守家の全貌を記した『松平大和守家の研究』が発行された。すなわち、東松山市には研究家や研究書もあり、遺品、資料も現存するわけである。そこで、松山陣屋商庖街には大和守関係の資料館を作ることも可能である。又、当時の唯一の建造物が残っている。最近の研究によれば、その建物は藩校博諭堂ではないかといわれている。現在の松葉町商庖街に当時の面影は全くないが、この地に資料館を建設し、江戸情緒を演出してはいかがであろうか。乙の商店街には若い後継者が多数いるし、又こだわりの逸品を制作するノウハウを持っている方が多い。松山陣屋商庖街として再生することができるのではないだろうか。街づくりへの提案である。

(十九)姉妹都市の締結|鎌倉市や鹿児島市

二十万余の人口を有する比企広域都市が誕生した際、国内に姉妹都市を求めるとすればいかなる都市が適当であろうか。鎌倉には異論がないであろう。比企は鎌倉武家政権を樹立した武蔵武士の故郷である。地名にも共通するものが多く、ともに中世という共通項を持っている。比企氏の伝承を伝える東松山市の大谷には大谷は九九谷といわれ、もう一つ谷があれば幕府は鎌倉ではなく大谷に聞かれたという。 鹿児島市は意外と思うかもしれないが、薩摩、大隅、日向三州の守護となった島津忠久は比企禅尼の長女丹後局と頼朝との聞に生まれたご落胤とされている。戦国の雄であり、明治維新の原動力となった島津氏は比企系なのである。それ故、比企氏が比企の乱によって滅ぼされた時島津忠久も連座し、三州の守護職を没収されている。又、日置郡(比企郡と同じ)郡山町(現鹿児島市)には丹後局と頼朝を祭った花尾神社がある。又、忠久に従って鹿児島に下向した武士団の中枢は本田氏をはじめ当地方の出身者であった。歴史を辿れば鹿児島市も有力な候補でないだろうか。

(二十)新文明探監の地 比企

現在の文明社会は大量生産、大量消費、大量廃棄という言葉に象徴されるように西洋の科学技術文明万能となっている。しかし、こうした在り方は環境や生態系の破壊、あるいは資源の枯渇などその限界が明らかになってきた。現代社会最大の課題はいかにして環境や生態系と調和した循環系社会を構築できるかである。日本の文化は本来自然と-調和し、共存するものであった。そしてその体質、遺伝子は今なお我々の血の中に脈打っている。日本文化の人類文明への貢献はその本来持っている特質を生かして特続可能な循環系社会を構築することにあると思う。比企地方は生態系的にも恵まれた大舌状大地である。森林資源も豊かであり、食料の自給も可能である。そこで、これらの諸条件を生かしてこの比企の地に持続可能な文化、文明を興すこと、これこそ比企地方最大の課題とすべきことではあるまいか。

以上、文字通り私の独断と偏見によって二十の提言をさせていただきました。どれもおいそれと実現できるものではありません。しかし、棒ほど願って針ほどかなうという言葉がありますから大いに願ってみました。あの世で小林君が苦笑しているのがわかります。このところ体調が悪く準備不足で大変失礼いたしました。